小説(21)広田は、経理実務の経験こそなかったが、日商簿記2級の資格は持っていた。日商簿記は、経理に携わる人間なら2級は持っている人が多い。ある意味で、基本は身に付けていますよ、という証のようなものでもある。もちろん、受験の簿記と実務は違う。たとえば、帳簿転記。これはけっこうやり方、しめ方が問われるところだ。しかし、パソコン会計でやると、仕訳をおこすと同時に転記もなされてしまう。テキストで語られている内容と実務では乖離がある。ただし、それは実務がパソコンによってよりスムースに処理がおこなわれるようになった、というちがいであり、会社経理の基本が学べる資格であることには相違ない。だから、広田が日商簿記2級の資格を持っていると聞いて、松田はほっとした。小口現金の処理であるとか、支払いの請求書の処理をたのむことができる。この二つは、簡単なようでないがしろにできない業務であり、仕訳の入力にしても簿記2級の資格があれば、まわしていける。判断もまかせることができる。ただ、広田の身分は副社長川越付の秘書であり、松田の仕事を100%フォローできるわけではない。自分で全部やる自覚はもっておいたほうがよさそうだ、と松田は思った。 2週間ほど、ひとりで経理の島を仕切る日々がつづいた。任月堂への発注も、銀行借入もなんとかこなすことができた。そんなある日、 「まつさん、今度、CFOのトムがくるみたいだよ」 そのころから、広田には「まつさん」と呼ばれるようになっていた。その彼女の情報によるとCFOのトムがまたくると言う。 「用件とかは?」 「うーん、ホテルをとってくれっていわれただけだからなあ」 決算で来日したのは先月だ。ほんとうに1日も会社にいなかった。今度はなにだろうか?もはや公然の秘密となったといっていい、トップ交代の関係だろう。 「そういえば、深田さんって連絡あるの?」 広田は、赤城の席で、彼が残していった 蛇腹式の名刺入れをぱらぱら手でまわして遊んでいる。実際、副社長秘書として採用されたが、仕事はせいぜい電話番くらいで、仕事がない。経理で広田をつかっていいと川越が言ったのも、秘書をつけるにしても、仕事がないということを川越本人が一番、知っていたのかもしれない。それでもしばらくは、川越の着任あいさつ状の手配であるとか、仕事はあった。しかし、2週間たち一段落すると、やること、時間をつぶすことを考えるのが仕事になってしまっていた。 「深田さんね。ときどき店にはくるけど、みないなあ」 「お店はともかくさ、川越さんに電話してくるとか」 「ないなあ」 「おーい、広田さん」 川越の声がした。 「おっ、ボスがおよびだ」 「そうだ、トムがくるのはいつ?」 「来週の月曜と火曜にホテルっていわれたから、月曜にきて水曜にかえるんじゃない?」 そう言って広田は社長室にかえっていった。 松田は内心、広田に経理を手伝ってもらえる時間も多くなるんじゃないか、と思った。それはそれで、そうなってくれると、おおいに助かる話だ。というのも本社への月次にかからなけれならないからだ。まず、どこから手をつけていいのか、その時点では、かいもく見当がつかない。そこを、ルーチンのこまかい業務を広田にまかすことができれば、安藤の残していったファイルを見ながらしあげていくこともできるのではないか、と思った。 翌週、広田からの情報通り、CFOのトムがやってきた。月曜の夕方に事務所につくと社長室で、川越とさしで話をしていた。トムはCFOであると同時にジャパンの監査役でもある。おそらく、今後のジャパンの方針について話しているんだろう。そう思いながら、たまった仕訳をパソコンに打ち込んでいた。 すると川越が、トムをつれて経理の島にやってきた。 「松田君、パスポートは持ってるね」 昨年10年有効のパスポートを取得し、台湾に旅行している。 「はい、もってますが」 「来週、アメリカ本社へいってきてほしい。用件は日本の会計処理の説明だ。いいね。」 アメリカへいく?英語もろくに話せないのに?一人でか? 「英語なら心配するな、こんごうちのコンサルテイングをやってもらう大沢さん、いっしょに行ってもらうから」 そこには、広田順子が初出社のときに姿をみた女性だった。大沢愛子。差し出された名刺には エイジコンサルテイング 代表とあった。 「よろしく」 すくなくとも、あすからの日常がこれまでと、確実にちがってくることだけは、そのとき、松田にも強く感じられた。 |